清四郎は田崎の家へ向かう途中、車の中から携帯電話で誰かに連絡を取っていた。
「……ああ、だからその二人について調べておいて欲しい」
話の断片から、誰かに何かを依頼しているようだった。抱えている手は一つじゃないのかと、達也は傍で聴いてそんな事を思っていた。
日中は忙しいと云っていた田崎忠彦だったが、夕方には自宅に帰していた。まだ妻の秋絵は戻っていないが、この際仕方が無いだろう。
「これは……!お忙しいところ、わざわざ申し訳ございません。それで、あの……紹介状というのは、ありましたか?」
清四郎をリビングへ招きいれた忠彦は、清四郎らをソファに座らせると早速といった感じで話を切り出してきた。お茶の用意も無いあたりが、男の無骨さといったところだろうか。しかしそれに気を悪くするような清四郎でもない。
「紹介状はありましたよ。確かに、荒川の自室に」
「やっぱりあの先生が……!」
膝の上で作る拳が、少しばかり震える。
「それで、結果は!?」
真相を早く知りたくて堪らないといった表情だ。それを見て、軽く息を落とした後に清四郎は言葉を紡ぐ。
「それが、荒川が亡くなった事で証拠資料として警察に押収されてしまいまして。けれども、それは後で返してもらう手はずは整えているのですが」
「そ……そう…でした…か」
期待とは異なる清四郎の反応に、些か気が抜けたような反応を示す忠彦。清四郎は構わず話を続ける。
「その前にちょっと確かめたい事があって、お宅に寄らせていただきました。 まず今回僕に調査の依頼をした切っ掛けというのが、望月医師の助言からなんですよね?」
「はい、そうです。 あの先生が『ひょっとしたら荒川が田崎絵美さんに指示していた投薬は、間違ったものだったのかもしれない』と仰っていました。 現に娘は倒れる数日前から病院で抗癌治療を受けていないんです。それに気付いた娘が、もしかしたら何かを察していたんじゃないかと思って、私達は依頼することを決意したんです」
忠彦は一つ一つの言葉を噛み締めながら、その想いの強さを表すような口調で語った。
そして今更知らされる事実。「田崎絵美は癌の再発後、一度抗癌治療は受けたものの、その後倒れるまでは病院に通ってはいなかった」という言葉。それを忠彦は荒川の不正医療に気付いたから、と考えていた。だから敢えて清四郎へは報告していなかった。
しかしこれは重大な鍵を握る言葉でもある。
「何か日記のようなものは残されていなかったんですか?」
「日記……?さて、私はよく解らないが。 何なら娘の部屋を調べてみますか?亡くなった日からずっと、そのままにしてあるんです」
「是非お願いします」
可能性はある。人は死という存在に直面した時、自分の居た痕跡を残そうと何かに自らの意志を留めておくケースは、決して少なくないからだ。自伝ブームなどはいい例だろう。人は遺し繋ぎたがる生き物だから。
案内された部屋は、二階の奥にあった。
六畳間の空間には大きな本棚が二つ並べられ、机の上にはノートパソコンとモデムが乗っている。床に置かれたプリンタには、まだ紙が差し込まれたまま埃を被っていた。
白とピンクで統一された絨毯と壁紙は、親の気遣いなのだろうか。その割に選ぶ家具の色は茶色や黒のシックなものだった。ちぐはぐな部屋。そんな印象を受ける。
「私は下に居りますから」
そう云い残して、忠彦は階段を降りていく。
「家族ですら知らなかった日記っていうのは、果たしてあるものなのか?普通遺品整理の時に出てきてもおかしくないだろう」
ごく一般的な意見を達也が述べた。それでも手は本棚に仕舞われている本を、一つ一つ確認しているが。
「日記と明らかに解るようなものならな。 けれど、父親くらいの年代ならパソコンを使えないとも考えられないか?」
清四郎はそんな達也を尻目に、まず手を伸ばしたのが机に置かれて埃を浴びたノートパソコンだった。案の定、全く弄られた形跡はない。
「日記なんていうのは、いくら家族でも見られたくないものだろう。まして田崎絵美自身、己の病気に関してあまり騒がれたくなかったとしたのならば」
「騒がれたくない?」
「田崎絵美の仕事は多忙を極めていた。その中で握った転属が、もし病気を理由に取り消し――最悪退職という事になれば報われないだろう? 家族に対しても同じだ。娘の身体よりも仕事を取る親など居ない。手術の時はともかく、再発後を親に知られたくないと思っていたとしても矛盾は無い」
パソコンの中に収められているデータの一つ一つを確認しながら、清四郎は達也に説明していく。中に入っているファイルは、その殆どがプログラムの途中であったり、或いは発注予定表とかだった。
そして数分後。
「清四郎、辞書類の裏のほうに癌関係の本が数冊ある。その中に付箋が貼ってるのも何冊か」
「こっちも見つけた。日記ファイルだ。普段見える所には置かないと思っていたら案の定だ。Cドライブの中にある隠しフォルダに入れている。 日付は田崎絵美が小野内科で癌の疑いがあると診断された日からだ」
それは僅か一年に満たないくらいの量であるのに、夥しい文量がそこにあった。それだけ彼女にとって、この闘病生活の中で感じることが多かったという事だろう。
「ナベルビン、これだ」
その日記を読み始める後ろで、達也が見つけた本を読み始めた。
「協和醗酵という会社から売られている抗癌剤。日本の薬だったんだな。四十ミリグラムで二八九一四円。通常投薬は一回二十五ミリグラムを一週間間隔で二週間連続投与し、三週目は休み。
抗癌剤ってこんなに高いんだな」
「個人輸入の場合は、輸入を申請するのは医師だが、その負担は患者だ。もっと高くつく。 単純にナベルビンの使用だけで年間八十万超。加えて差額ベット代なんかを併せていくと、いくら有望株とは云え、若い女性が払っていくには痛い金額だろうな」
「あぁ……それに、ナベルビンは他の抗癌剤と併せて使用する場合が多いらしい。それならば尚更だろう」
「仮にもう一つの薬が承認薬だったとしても、今の日本じゃ混合診療は自由診療と同じだからな。もう一つの薬が保険適用内であっても、適用外にされてしまうんだ。それならば、転移性を示して総て保険適用にしてしまった方がいい」
読み進めていく日記の中には、当時絵美が関わっていたプロジェクトの広告計画案も織り込まれていた。
絵美の勤めていた会社というのは、どうやらソフト開発の事業を主に担っているところらしい。都内に数社のビルを持つ。本拠はみなとみらいだ。ソフト会社の作るソフトというのは、大きく分けて三つある。パッケージと呼ばれる一般ユーザーを対象としたソフト。業務系と呼ばれる企業からの発注を受けて作られるオーダーメード式ソフト。そして組み込み系という家電や携帯電話などに組み込まれるソフトだ。その中で絵美は業務系の発注を受けていた。
パッケージは当たれば大きいが、外れればその分の損益も大きい。正にハイリスク・ハイリターン展開であるが、業務系は企業から直接オーダーを受けるため、提示期間よりも短期間にあげるだけの人材教育が出来ているのならば、企業にとって安定して成長できるビジネスだ。売り込みの営業となれば、会社にとってオーダーを受けられるかどうかの死活問題に関わってくる。
絵美が交渉を進めようとしていたという開発業務も、大手金融会社を相手としたソフト開発についてだった。これを掴めば利益は大きいが、外せばそれだけ上司からも冷たい仕打ちが待ち受けている。彼女にとっては、どうしても外せない仕事であったに違いない。
「乳癌に有効な抗癌剤は、他にタキサン、イリノテカン、カペシタビン、ジェムザールなど数多くの抗癌剤が存在する。その中で、ジェムザール+α、またはナベルビン+αの組み合わせでの副作用が少ない……だそうだ。 ちなみにジェムザールも日本における乳癌の治療薬には認定されていない。認定されているのは、非小細胞肺癌と膵癌の二つ」
清四郎は漸くスクロールする手を止めた。そしてゆっくり達也の方へと向き直る。
「だから肺癌と詐称したのか」
やりきれないといった表情で呟いた。
「もしナベルビンが効かなくなっても、今度はジェムザールを使う事ができる。荒川医師は、実験ではなく戦おうとしていた。田崎絵美さんの乳癌と、前向きに。それで手にある治療法を数用意して、それを切り札に考えていた」
達也の中で考えは変わりつつあった。堅いところはあるが、こういう柔軟性も持ち合わせている。一方通行では解らない意図を感じ、達也は知らず溜息を吐いていた。
「日記を見る限り、田崎絵美は自分の病名が詐称され、且つその上でナベルビンが投与されていたのを知っていたらしい。未承認薬という事で不安に思い、自分でも様々な本を読んで調べた結果、それが世界的にはごく当たり前に使われている抗癌剤であり、更にそれを自分に使用するという事は医師自身が大きなリスクを抱えているという事を知った。
それで家族にも話すことができなかったんだ。他言してしまえば、それがいつ誰に漏れるとも解らないという理由で。
実際田崎絵美は多忙だった。その中でナベルビンを選んだ理由には、きっと達也の云った副作用の少ない面が挙げられるだろう。折角の抗癌剤でも、副作用に悩まされては仕事をすることもできない。仕事を続け、且つ癌の治療を続ける事への選択肢は狭い」
辿り着いた結論は、そこだった。今回の治療は、双方合意の下で行われている。ただそれが本来ならば保険治療に該当しないが故に、様々な誤解を招き、それを利用しようとした輩が生まれる事となった。
付け加えるならば、あくまでこれは不正医療であるという事。仮にこういった自由診療が、総て保険診療でまかなえてしまえるとすれば、それはそれで財政の圧迫といった問題を生んでしまう。だから必ずしも荒川の行った方法が正しいとは云えない。それでも人の命を救いたいという医師の基本理念に則った行為であるという事は、否めない。
「最後の数日間、治療を行わなかった理由は?」
「日記に書いてあった。やり遂げたい仕事があるから、だそうだ。
けれども抗癌治療というのは月単位では急いでも、週単位では急がないという医師も居る。その数日間で急激にがん細胞が増加したとは考え難いから、ひょっとすると薄々抗癌剤が効かなくなっていたのを感じていたのかもしれない。だから治療を優先するよりは、自分のやりたい事を優先するようにした」
清四郎は近くにあった空のROMにそれらの内容を書き込む。これはこの調査における重要な資料となるからだ。先に起こった事件の解決へ向けての糸口にもなる。
「癌に苦しみながらの仕事、か」
そうして漏らす達也の一言。だが、清四郎はそれを否定する。
「苦しむっていうのは最後だけじゃないかな。癌っていうのは、そもそも肉体的には酷く優しい病気だ。痛みを感じず、いつの間にか全身を蝕んでいるというパタンが多い。気がついたらステージWの癌だった、というのも珍しくない。
それに癌治療の大変さというのは、抗癌剤治療の辛さに尽きるだろうが、今回の件では荒川は彼女のQOLを下げないよう細心の注意と努力を図った。亡くなっているからこう云うのは失礼かもしれないけど、いい医師に巡りあえたんだと思う」
ROMが取り出され、それをケースに仕舞いながら清四郎は呟くように云った。
QOL=クオリティ オブ ライフ。患者の生活質を意味する。治療に拠り、副作用に苦しみ、更に膨大な薬代を払わされる癌を消すだけの治療に、どれ程の価値があるものか。昨今ではそういった意見が多く出されるようになった。まだ全体の浸透はしていない。癌細胞縮小至上主義がはびこり、患者は手を知らないまま治療される。
山積みにされた問題は、誰かが少しずつ組み解いていくしかない。その誰かを望んでいては、何も変わらないというのに。
「さて、残るは二件の殺人事件だ。 これを解決したら調査記録をまとめよう」
大きく背伸びをし、明るい声で清四郎は云った。
「荒川も殺人か?」
「多分。自殺しようとする人間が、検討会の事で今井を呼び出したりはしない。それとエアコンだ。自殺にしては不審な点が多いんだよ」
それと首に巻かれていた革。清四郎はそれらを結びつけ、既に自身で一つの推理を打ち立てていた。それをこの場でさらしてしまうのは勿体無いとばかりに、いつもの焦れを達也に与える。
「今日は一旦うちに戻ろうか。 なに、容疑者は逃げないさ。絶対安全だと思っているからね」
自信たっぷりに笑い、達也の背を叩く。
残るは一つの報告書を待つだけだった。
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