Zeugnis
01/作品
 探偵事務所に一番多い依頼。それは、殺人事件の解決でも無く、また家出人の捜索でも無い。ありふれた日常に浮かぶ一点の曇り、浮気調査である。


 午後の事務所の窓を開ければ、潮風が中へと入り込む。アンティーク調の家具が強い潮風に軋りを見せ、座ってもいないのにロックチェアが独りでに動く。
 静寂の中でツヴァイトは依頼人を待ちながら、いつものように紅茶に口付けた。
 日に日に冷たくなる風。事務所のある北国は冬が早く、九月もまだ半ばだというのに、もう秋の兆しを見せている。眼下を通る高校生も長袖に身を包み、どこか肩を縮めて歩いているようにも見える。
 それでも穏やかに動く空気の中、それを切り裂くベルが鳴り響いた。
 今時アナクロなダイヤル式。勿論プッシュ回線の電話もFAXも取り揃えてはいるが、インテリアも兼ねたこの電話をツヴァイトは気に入っていた。
「――はい、華京院探偵事務所です」
 カップを置きながら受話器を取る。いつもながらに流暢な声。反射的に見せる甘さを含んだその声は、さすが話し手といったところだろう。
 ところが。
『……貴方が、貴方が私の……私の…………』
 震える声が闇の奥に沈んでいく。
「もしもし?」
『うわあぁぁああぁぁっっ――!』
 プープープー……
 絶叫を残して、電話は切れた。
「一体何なんだ?」
 ツヴァイトはその圧倒的なインパクトに気おされながら受話器を置き、呟く。そういえば、どこか聴いたことがある声だった。誰かに似ている――……?
「いや、まさか」
 一人で訊ね、自ら打ち消す。それでも残る胸のしこり。
 その疑問は、すぐに解決されるのだが。

 一時間も経っただろうか。
 あれから何事も無く平和に過ごしていた事務所内。時計は三時を回った頃。観光客の足並みも一先ず途絶え始めたという折の事だ。事務所へと慌しく駆け上がる足音が一つ。
 ツヴァイトは、厭な予感を覚える。
「華京院さん! 遂に捕まえましたよ……!」
 ドアは壊れるんじゃないかと思う勢いで開かれ、そこに立っていた人物は、肩で大きく息をし、恨みがましい目でこちらを睨んでいる。その相手を見止め、ツヴァイトは大きく目を見開いた。
「――佐原さん」
 呟くその言葉に、彼の肩がぴくりと揺れる。
 佐原智弘(ともひろ)。某大手出版社の編集者という肩書きを背負っており、三十台前半であるという若さでありながら、その腕と才能が認められて大物作家の担当になる事も多い。つい先日までは、とある文学賞を受賞したという久慈弥人という作家の編集担当をしていたが、不幸な事に彼は亡くなってしまった。いや、正しくは殺されたのだ。彼の妻の手に拠って。
 その事件解決に華京院が一役買い、その時に佐原と彼は知り合った。
 その後佐原は本社のある東京へと戻り、こちらへは一度も戻っては居ない。元々こちらに実家があり、それ故ここに籍を構える久慈の担当となっていたわけだが、今回戻った理由はそれとは違う。華京院に個人的用事があり、戻ってきたのだ。
「お久し振りですね。その後、お元気でしたでしょうか」
 何事かと内心思いながらも、その疑問を顔に出さないよう務めて穏やかな笑みを浮かべた。が、佐原は相も変わらず鋭い視線を刺してくる。
「白々しい顔をしても無駄です!人の妻を横取りしておきながら、よくもそんな涼しい顔ができるものですね!」
「――――は?」
 全く予想だにしなかった言葉を投げつけられて、ツヴァイトは思わず間抜けな声を出してしまう。
 が、これがまた癇に障ったようだ。
「なるほど、自覚なき犯行だという事ですか。 多重人格なのをいい事に、素知らぬフリをすれば総て赦されるとでも!?」
 とんだ言いがかりだ、とツヴァイトは肩を竦める。
「落ち着いてください。どうか、落ち着いて。 確かに私は多重人格――解離性同一性障害です。それは認めます。 ですから、私自身に覚えの無い事を責められても、何のことだかさっぱり」
 すると漸く落ち着きを取り戻したようで、大きな嘆息を吐くと指で眼鏡のずれを直した。それからまっすぐにツヴァイトを見る。
「一昨日の午後。 私の妻が銀髪長身の男と、帽弐(ぼうに)というデパートで一緒に居る事が目撃されています。 私の知る限り、銀髪長身は貴方しか居ない」
 厳しい口調で問い詰められ、ツヴァイトは出来うる限りの記憶を呼び起こした。
 一昨日。まだ記憶には新しい。
「あの日――私は家から一歩も出ては居ません。薄曇りの日でしょう?あの日はちょっとしたごたごたがあり……私は事務所に残って片付けるものがあったもので」
 ツヴァイトがそう云うと、佐原は不承不承頷く。今はとにかく相手の云う言葉を信用するしか無いのだから。
「じゃあ他の人格が――という事かもしれないのですね?」
「可能性は否定しませんが、ここは日本でも有数の観光地。外国の方々も多く訪れる土地であるという事をお忘れなく。 銀髪長身の特徴は、何も私に限りません」
「加えて、そいつの乗っていた車がシボレーコルベットだ、と云ったら?」
 ツヴァイトの反論に対して、待っていたと云わんがばかりの表情で佐原が付け加える。それにはツヴァイトも押し黙った。彼の愛車が、シボレーコルベットなのだ。そして彼はそれ以外に車は持ち合わせていない。  だが、ツヴァイトが外に出ていないのも、また事実。
「では私以外で車を動かせる者に聞いてみるといいでしょう」
 そうしてツヴァイトは意識下に潜る。


 暗く境目の無い狭い空間の中。
 ツヴァイトはそこに一人の影を見る。ドライだ。ドライは冷めた目でツヴァイトを見つめ、そうして口を開く。
「私が出ろ、と?」
「見ていたのか。その通りだ。 どうやら彼は頭から私たちを疑ってかかっている。そんなはずは無いと思うのだが、納得させるにはそうせざるを得ないだろう」
 やれやれとばかりに嘆息を漏らす。だが、ドライは無愛想な表情を残すばかり。
「私が出て何になる。一昨日のことなど、まるで覚えてはいない」
 ドライの特質だ。どの人格よりも聡明で論理思考には長けているというのに、その記憶は長く続かない。長くてもせいぜい半日程度の記憶しか持ち合わせることができない。
「何かうまく言い包めてしまえばいい」
 ツヴァイトはその辺の事も解っていながら、それでもドライを促した。他に車を動かせる人格には、フィーアが居る。だが彼は――危ういのだ。前科が無いわけではないから。
「――仕方ない」
 まだ今ひとつ納得がいかない表情を残したまま、ドライはスポットに立つ。


 ゆっくりと目を開けると、そこには食い入るように顔を見つめてくる佐原が居た。
 ドライは無言のままパソコンの前に立ち、立ち上げる。静かな唸り声を上げるようにディスプレイに明かりが灯り、そこに開いたメモ帳にドライは言葉を打ち込んだ。
『さて、ツヴァイトから話は聴いた。我々の不貞を疑っているようだが』
 冷静に打ち込む言葉の裏に秘められる圧倒的な絶対感。自らが正と信じて疑わない論理が彼の中には常に渦巻いている。
 それに気圧されることなく、佐原もまた言葉を返す。
「ええ、そうです。シボレーコルベットに乗る銀髪長身の男性が、私の妻と密会をしていたという情報を得たもので」
 疑う目つきでドライを睨む。
『それだけの証拠で我々を疑うなんて、バカげていると自分でも思わないのか?』
「そういうならば、貴方が一昨日外出していない証拠でも?」
 頭に血が上っているせいか、佐原の口調はやたらと攻撃的だ。仕方なくドライは立ち上がり、本棚から帳簿を取り出した。経費をまとめる為のもので、もし一昨日買い物に行ったのならば、ここにレシートが残っているはずだからだ。
『単なる記録でしかないものだが』
 そう云って帳簿を開く。これを付けるのはドライだ。
 分厚いファイルを捲り、一昨日のものを引き出す。そこに貼られたレシートの中に、佐原の云う『帽弐』デパートのものが。
『――――』
 すかさずファイルを閉じるが、もう遅い。
「やっぱり貴方じゃないですか!」
 しっかり佐原には見えていたようで、当然彼は激怒する。
『何かの間違いだろう』
 計算と違う事態に些か焦りを見せながら、しかし手の震えは無く務めて冷静を装ってドライはキーを叩く。
「間違いも何も、しっかり証拠が残っていたじゃないですか!銀髪長身、シボレーコルベット、そして帽弐のレシート!これら総ての証拠が揃うその確率が、果たしてどれくらいの割合だと思っているんです?この日本、そして限定されたこの地域で!」
 尤もだ。佐原の言葉は、誰が聴いても尤もだ。
 そうドライも感じてはいるが、しかし身に覚えの無いことを責め立てられても、何の言い訳もできやしない。
『だが単なる偶然という可能性も、全くゼロではない』
「ほう、偶然――まだ偶然と云い切るつもりですか。 では一昨日、ドライさんは何をしにデパートまで行ったんです?そこで私の妻と逢う以外に、一体何を?」
 頬肉が怒りで痙攣し始めている。怒りを通り越せば笑うしかないというが、これが正にその状態だという事か。
『私は知らない。覚えていないのだ。 だが、私は私用で車を勝手に動かす事はまずしない。あれはツヴァイトの車だから。故に私は潔白と云えるだろう。
 第一にして言葉を話さない私が、どうやって貴方の妻と言葉を交わすというのか。傍に居る男が何も話さなければ、それを浮気と疑う方が無理がある。それに私はご存知の通り記憶を持たない。次に出逢った時には忘れているだろうというのに、恋愛なんて持っての他ではないのか?』
 記憶も言葉も持たないドライは、確かに恋愛には不向きだろう。恋人の顔も忘れてしまうような奴が、他人の妻を取るような真似は、常識的に考えてまずしないだろう。
 それには佐原も納得せざるを得なかった。
「では何故帽弐に行ったんです?」
『記憶者――アインスに尋ねてみよう。彼なら覚えていると思う』
 そう打ち込んで、ドライもまたそっと目を閉じた。

 現れたのは、目の中に常に恐怖心を飼っている人格だ。目の前に現れた怒りの表情を目にして、思わず小さな悲鳴を上げる。
 それでもまだ男性だから耐えられる。
「あ、あの……」
 呟くように話すアインス。だが佐原は表情を緩めない。
「単刀直入に訊きます。一昨日帽弐デパートで一体何を買ったんですか?」
「え?帽弐?駅前にある?」
 本当に唐突で、アインスはきょとんとなりながら言葉を聴く。人格として呼び出されたのは本当に急で、これまでの経緯を何も解ってはいないのだ。
「そう。そこで私の妻と逢っていたはず。そうでしょう?」
「や…だって、一昨日は僕食器を買いに行ったんだよ」
「食器?」
 また唐突な、と佐原は短い溜息を吐く。
「嘘を吐いても――」
「嘘じゃないよ。レシート見れば解る。 あの日は朝、カップを割ってしまって、それでデパートに買いに行ったんだよ。値段は二万一千円。エインズレイっていうメーカーのオーチャードゴールド」
 すらすらと並べ立てられる未知の言葉の数々に、佐原は一瞬言葉に詰まる。
 エインズレイも、オーチャーゴールドも、彼の頭の中には未だ嘗てインプットされたことの無い単語だ。
 だから今度は佐原が先ほどの帳簿を開いて見た。すると、確かにアインスが云う通りの数字とメーカーがレシートには刻まれている。嘘を吐いているわけではなさそうだ。
「エインズレイはジョン・エインズレイという元はスタッフフォードシャー炭鉱経営者だった人が、一七七五年に始めたイギリスの陶芸工場の名前だよ。オーチャードゴールドはその代表作で、果物の絵が描かれているものを指しているんだ。
意外だと思うかもしれないけど、これフィーアが昔付き合ってた人に貰ったカップなんだ」
「はぁ」
 食器にまるで詳しくない佐原が、そんな説明を聞いたところでピンと来ない。ただ値段だけは立派だと思っただけだ。
「確かにそれを買った事実は間違いないでしょう。しかし、それは私の妻と逢っていないという否定にはならない」
 そして飽くまで自分の主張を貫こうとする。
 アインスは途惑いながら記憶を探る。一昨日に起こった自分の身の回りのこと。そして、デパートで行動した一挙一動。
 そうして辿り着いた一つの記憶。
「あ……」
 小さな呟きは佐原に届き、その反応に怒りが露わになる。
「ほら、やっぱり!」
「いや、でもあれはそういうんじゃなくって、だって気が付いたら馴れ馴れしく……!」
「私の妻が自ら貴方にアプローチをしたとでも?」
「だって本当に僕知らない!そもそも僕は対人恐怖症だよ?特に女の人に対しては!」
「あ」
 かたかたと先ほどから小刻みに震わせる肩を見て、佐原はアインスの特質を思い出す。
 先に起きた事件でも、彼はこうして常に怯えるような目と女性を避けるような態度を取っていた。今更これが演技というわけでもあるまい。これには佐原も納得するしか無かった。
「だから僕、その人に話しかけられてすぐに中に戻ったんだ」
「その後に出たのは?」
「――フィーアだよ」


 フィーアはぶすっとした態度で表に出た。剣呑な雰囲気を常に放っている。だが、佐原の感情はそれに負けない。
「貴方が――」
 疲労でもう目が充血している。今度こそ、といった切迫感がひしひしと伝わってくる。
 佐原は実際こうしてフィーアと向き合ったことは無い。しかし話だけは聞いていた。第四の人格である力のフィーア。感情的で、粗暴な性格。彼ならやりかねない。そんな予感がした。
 フィーアはフィーアで、これまでの経緯を中で聴いていた。だから佐原が自分に向けている疑いも知っている。そしてそれが勘違いであるという事も。
「あー……何だ、その…確かに俺はアインスに云われて、その女と話したよ」
「やっぱり!それで、何時、どこで私の妻と知り合ったのです!?」
 食ってかかる佐原を押し留め、フィーアはそのことについて装飾無く話す。
「待ってくれ。確かに女とは話したが、それでもあんたの女だとは限らないだろう?人違いって事もある」
「目撃された場所は帽弐デパートの四階紳士服売り場。その当時着ていた妻の服は若草色のカーディガンと中には生成り色のカットソー。小柄で細身、年齢は二十八。茶髪でゆるいカールをかけている」
 フィーアの思い起こす記憶の中の彼女とは、その殆どが一致していた。記憶という曖昧なパレットに浮かぶ彼女の姿が、必ずしも一致している必要は無い。一致させることができるのは、記憶者であるアインスだけだ。それくらい記憶は曖昧なものだから。
「ま……特徴は大体あっているかもしれないな。 けど、よく考えてみろ。俺だってアインスに呼ばれて外に出たんだ。その女とは初対面だし、まして名前も知らない」
 頭を振って否定するが、その心は佐原には届かない。
「果たしてその言葉は信用できますか?」
「信用も何も……本人に訊いてみれば済む話じゃないのか?大体にして、そんなでたらめ情報誰から得たんだよ」
「――本人に訊けないから、こうしてここまで来ているんです。私は別に妻を責めるつもりはありません。貞淑であるはずの妻を唆す人物が赦せないだけです」
 それはまた身勝手な、とフィーアは溜息を吐く。ともかく悪者にしたいのは、自分と妻以外の誰からしい。 「それに、妻はつい一週間ほど前からやたらとそわそわし始めておりましたし、私が電話をしたところで直に切ってしまうのです。それで私は、ひょっとしたら自分に云えない隠し事をしているのではないかと考え、恥ずかしながらとある知人を頼って彼女のことを調べてもらったんです。
 そうしたら――貴方と出逢い、楽しそうに買い物をしていたと云われまして……」
 なるほど、一週間前という、とちょうどあの久慈弥人殺人事件の時期に当たる。その時事件を知った佐原の妻と逢っていたかもしれない。
 しかし。しかしフィーアには決定的にこの不貞の疑惑を晴らす要素を抱いていた。
「自分で云うのもアレだが、俺は……こんな性格だろう?感情的で、乱暴で。女で問題を起こしたことが無いとは云わない。
 だが、俺たちがそれぞれを自覚してからずっと、それを理由に俺は殆ど外に出ることを赦されていないんだ。せいぜい世界が寝静まった夜中に起きるくらいだ。いざという時以外は、殆ど閉じ込められているんだよ。
 だから俺があんたの女と出逢う機会なんて――無に等しいんだ」
 自嘲気味に笑うその淋しさに、思わず佐原は怒りを忘れていた。
 そういえばそうだった、と独りごちる。自分も立ち会った殺人事件の折、確かにこのフィーアという人物は一瞬しか姿を現すことは無かった。鹿野から暴力を仕掛けられた、その一瞬のみだ。だから自分は話を聴いてはいても、実際目の当たりにした事は無い。出逢ったのは、ツヴァイトとアインス、そしてヌルのみ。主に外に出ている人格がツヴァイトとアインスだとすれば、このフィーアが告げる言葉は嘘じゃない。
「なら一体誰が――……」
 掴みかけた真実が腕を滑り落ちていく感覚に、佐原は肩を落とす。それをどう慰めていいか解らずあぐねると、不意に耳の奥に雑音を聞く。
 人格が溶けていく。一つになる。この感覚――
「ヌルだ」
 その一言を最後に、フィーアは目を閉じた。



 気だるい身体を抱きながら、総ての人格の記憶を統合した玲が目覚める。その目は常に無常に嘆き、ただ死を待ちわびる屍のような色を持つ。
 玲は目の前の佐原を見止め、浅い息を漏らした。
「佐原さん――でしたっけ」
 どこか投げやりに似た言葉。
「逢うのは二回目ですか。まあ隣に死体が転がっていないだけマシだというものです。が……こうもくだらない事で起こされるとは」
 不本意だといわんがばかりの態度で、椅子に座りなおす。
「くだらない事とは何です!私にとってはとても重要な……!」
 玲のあまりと云えばあまりの言葉に、佐原は思わず椅子から立ち上がって抗議する。だが、それに動じるような彼ではない。
「重要……ですか。 しかし考えれば解るでしょう?貴方の前には、あれだけのヒントが転がっていたのですから」
「ヒント……?」
 そしてまた、玲は浅く溜息を吐く。
「ええ。貴方の妻と出逢っていた人物。それを示すヒントは、これまで沢山置かれていた」
「一体誰が――!」

「私ですよ。 他に、誰が?」


 至極当然といった悪びれない態度で、あっさり玲はそう云い放った。
 妻と逢っていたのは自分である、と。これまでの否定を全部覆し、他に疑問の余地も無いかの如くに、本当にあっさりと認める。
「な…あ……貴方が、華京院さんが私の言葉を総て否定していたんでしょう!?それを、今更っ!?」
「一つ一つの断片を辿るから、それは否定に繋がる。だからそれを総て一つにまとめればいい。
 真相はこうだ。
 一昨日の朝、ツヴァイトはお気に入りのカップを割ってしまう。エインズレイオーチャーゴールドのティーカップ。このカップを割った事実をフィーアには告げられない。彼が貰ったカップを割ってしまったとすれば、責められるのは目に見えているからな。フィーアが起きるのは決まって夜中だ。それまでに同じものを買ってしまえばいい。そして片づけは自分が行う。
 同じカップを買うのに適している人物はアインスだ。彼はメーカーも種類もどこで買えるかも総て記憶している。だから彼に相談し、同じカップを買ってきてもらおうとした。
 だが、アインスは運転することができない。そこで運転はドライに頼んだ。ドライならば直に自分の行動を忘れてしまう。何処に向かったか、何を買ったか、それを忘れられる人物は適材だった。
 そしてドライがデパートに着いた時、その女性と出逢ったのだろう。何かを頼まれるが、しかしドライは言葉を持たない。適当な相槌を打つうちに、その女性と何かの約束を取り交わしたと考える。
 人格はアインスへと変わる。アインスはツヴァイトに頼まれた通りの食器を手に入れた。あのデパートには輸入物の食器を扱っているコーナーがあるからな。 だがアインスはドライが交わした約束を知らない。そこでそのまま事務所に戻ろうとした時、その女性に捕まった。
 アインスは知っての通り女性恐怖症だ。そこでフィーアにスポットを明け渡す。
 フィーアはあれでいて女性には優しい。恐らくは何も知らないが、取り敢えず彼女の云うままに付き合っていたという事だろう。紳士服売り場に居たという事は、そこで何かを買うのに見立てる必要があったと推測される。貴方には内緒で」
「見立てる?」
「そうでなければ、わざわざ一度出逢ったきりの私に声をかけるはずもないでしょう。 何か近々特別なことでもあるんじゃないですか?」
 特別な事。
 玲に云われて、佐原は妻と自分に関するあらゆる事を思い出そうとした。一週間前から様子がおかしくなった妻。それはその日が近付いているから、と考えられる。
 そうして出かけた先に出逢った華京院。彼の事は佐原自身の口から妻にも伝えられているし、あの事件の後夫を迎えに来た妻は、彼を見知っている。
 もしかしたら自分の為に何かを――?
「あっ……」
 そう考えた時、結論は一つに落ちた。
「あっはは…ははは、忘れてました……そうか、そういう事」
 自然と笑いが浮かんでくる。何もかもが自分の勘違いだった。そう、妻がこの日の為にそわそわしていたのだとすれば、納得がいく。あの貞淑な妻が浮気などするはずがない。初めからそう決めてかかれば良かったのだ。
「何か思い当たることでも?」
 玲の問いかけに、佐原は漸く笑顔を浮かべた。
「ええ……今日は私達の結婚記念日だったんです。それで、きっと」
「そう、それは良かった」
 玲は怒るわけでもなく、穏やかにそう云った。
 誰にでも勘違いはある。それが取り返しのつかないものならともかく、単なる誤解であるのに腹を立てる理由は無い。
 結論に行きついた佐原は、照れくさそうに頭を掻いて、それから深々と礼をした。
「本当に勝手な誤解をしてしまい、申し訳ございませんでした」
 放つ言葉のなんと晴れ晴れとした事か。
「私に謝るよりも、まず奥方に謝罪の方が先でしょう。 早く行ってあげなさい。遅くなると花も買えなくなる」
 玲がそう促すと、佐原は何度も何度もお辞儀をしながら事務所を出て行った。
 その後姿を見送って、玲も安堵の息を漏らす。
「それにしても、わずか数時間に満たない出来事だというのに、一体誰がこの事を――」
 後にはただその疑問が残った。


 夕方、佐原の手に握られたのは薔薇をメインにあしらった花束と、小さなホールケーキ。
 辿り着き帰る場所は、港に面したマンションの一室。
「ただいま」
 扉を開けて靴を脱ぎ、そのままリビングへと真っ直ぐに歩く。
「お帰りなさい。今日は早かったのね」
 丁度夕飯の支度が終ったらしく、テーブルの上に乗せられたおかずが湯気を立てている。
「あら、その箱は?」
 彼女は佐原の手に持たれた箱に目を移す。佐原は照れながら、それを彼女に差し出した。
「今日は二人の結婚記念日だろう?」
 そして一緒に花束も。
 照れくさくて俯いていたが、花のように綻ぶ彼女の顔を想像し、それを見ようと顔を上げる。が。
「あ……そうでしたっけ」
 予想していない反応に、些か呆気に取られる。
 しかし一週間も前から計画をしていた彼女のことだ。これはきっと自分を驚かせる為のスタンスに違いない。
 佐原はそう思い直して食卓に付く。きっと食事の後に、例のプレゼントが出てくるのだろう。そう思いながら。
「思い出していたら、もっと夕食を豪勢にしていたのに……ごめんなさい」
「いや、いいんだよ」
 何か様子が変だ。
「私ったら本当にすっかり忘れていて」
「はは、またまた」
 何かおかしい。
「いえ、本当に全く何にも用意していなくて。却って申し訳ないわね」
 ――本当に?何も……用意していな、い?
「え、だってお前――私に何か買ってくれていたんじゃないのか?」
 云わないつもりだったが、明らかに自分の予想していた態度と違うので、思わずそんなことを訊ねてしまっていた。すると彼女は目をぱちくりと見開いて、ころころと笑い出す。
「まぁ、誰がそんな事を」
 そうして彼女はまるで何事もなかったかのように、再びてきぱきと夕飯の支度に取り掛かった。
 一体、どういう事だ?



 翌日。
 華京院の元に届けられた小包の中には、一本のネクタイが入っていた。
 そして同封されていたのは、一通の手紙。
『 前略
  先に起こりました殺人事件解決の鮮やかなお手並みを主人から聞き、この地にこんな素晴らしい方が居られるなんてと身が震えました。また先日改めてご本人を目の当たりにし、その知的且つ端正な風貌にただただ胸を熱く焦がすばかりでございます。
 お送りさせていただきましたのは、先日ご一緒させていただいたほんのお礼です。また機会がございましたら、今度は一緒に食事でもいかがですか?是非華京院さんが解決された事件のお話を聞かせていただきたく思います。
 取り急ぎ、まずはお礼まで。        』
 差出人には佐原の妻の名前。宛先は、華京院玲。
 そして事務所を目指して駆け上がる荒々しい足音。
「華京院さん、どういう事ですか!?」
 現れた佐原を前に、予測しない事態にただツヴァイトは呆然とするばかり。
 過ちは、果たしてどこで?

01/あとがき/作品